戦後80年の視座 宗教団体法下の国家と宗教(8月22日付)
戦後80年の節目を迎えるに当たり、本紙は8日付で、戦時下における本紙の報道の検証を試みた。戦時中の紙面には「神仏基が一丸となって」といった表現が見られるが、ここで注意すべきは「神」が指すのは神道ではなく、教派神道であるという点だ。明治政府は神道を宗教とはせず、国家神道として位置付けた。宗教と国家の関係を理解する上で、こうした歴史的背景を見落としてはならない。
国家総動員体制の下、宗教界もまた翼賛体制に組み込まれていった。その背景には、帝国議会で着実に進められた法整備がある。1925(大正14)年に制定された治安維持法をはじめ、宗教界を対象とした象徴的な法律が、40(昭和15)年に施行された「宗教団体法」である。
同法は、神道・仏教・キリスト教などの宗教団体に対し、法人設立を認可制とする法律であり、国家による宗教統制の枠組みを明文化したものだった。一方で、神社は宗教ではないとの解釈の下、同法の適用対象外とされた。すなわち宗教に対する国家の関与と、国家神道との線引きが明確に行われたともいえるだろう。
この法律が成立するまでには、実に約40年の歳月がかかった。1899(明治32)年、山縣有朋内閣が「宗教法案」として帝国議会に上程したことにさかのぼる。当時は宗教団体に関する統一的な規定がなく、宗教行政には300にも及ぶ個別の法令が存在した。
法案には仏教界やキリスト教界が強く反発した。教義を国が認可することへの批判に加え、教団の規模、歴史の長短に関係なく宗教団体として同等に扱われることなどへの抵抗があった。だが仏教連合会は、法案施行後の影響までは見抜けず、賛成に回ったということは忘れてはならない。
最終的に99あった条文を37まで削減して審議しやすくし、宗教ではなく宗教団体を規制するという建前で、法案名を「宗教法」から「宗教団体法」へと変更して上程された。文部大臣は「煩雑なる在来の規定を整え、宗教団体に対する国家の保護・監督を適正にし、宗教教化活動にも便益をもたらす」と美辞麗句を並べた。
この法案の成立により仏教の56派から28派へと集約されていくことになる。国家による宗教界の「再編成」は、制度的枠組みのもとで進められたのである。
戦争を二度と繰り返さないために、今を生きる私たちには、為政者の言動や国会の審議に対して常に注視する責務がある。過去、歴史を問い直すことは未来を守ることでもある。