「何もしない」危うさ 断絶と排除を弱めるには(4月1日付)
紛争やヘイトが頻発する世界状況を反映してであろうか、このところ断絶をテーマにしたシンポジウムや講演会の類が多い。昨年12月21日には日本学術会議主催公開シンポジウム「分断化する社会の中で対話は可能か――ポスト・ソーシャルメディア時代の社会構築」が開かれた。また去る3月11日には、例年行われるコルモス会議の公開講演会のテーマが「分断と排除に向き合って」であった。
社会的な分断や排除といった現象は、人間がなかなか克服できないままに、現代でも続いている。しばしばそれは悲惨な結果をもたらしてもいる。なぜこうした現象が絶えないのか。それを考えるとき、社会学者ジンメルの洞察は、今でも重くのしかかってくる。
ジンメルは社会関係の形式という視点を提起した。上下関係、分業、競争といった社会関係が、どのような社会分野にも生じることを論じた。対立は政治にも経済にも、宗教にも生じる。彼は社会関係について注目すべき洞察をなしたが、その一つが「よそ者」と「放浪者」の違いを論じる中に示した「排除されていないものは包括されている」という指摘である。
通常、少数者、弱者、よそ者などが排除されるとき、彼らを排除しようとしている人の存在が、排除の原因と見なされる。いじめの問題もそうであるが、いじめる人といじめられる人がいるから、いじめ問題があると認識される。
ところがジンメルは、通常どちらにも含まれてないと見なされる人に着目した。排除してもいないし、排除されてもいない人である。いじめで言えば、いじめても、いじめられてもいない人たちだ。
彼らが実際は排除する側に包括されるというのがジンメルの洞察である。差別や排除が社会にあっても、多くの場合どちらにも属さない人が圧倒的に多い。だがそれはジンメルの見解に従えば、排除する側が圧倒的に多いことを意味する。差別や排除される人が深く傷つき、絶望するのはこの構造がもたらすと理解できる。
何もしないでいる人に直ちに行動に移せというのも困難な話である。社会的に頻発する暴力的排除に立ち向かうのは勇気がいるが、この構図に気付くだけでも生じていることへの見方は変わる。
何もしないでいることは、排除する側、あるいは分断を促進する側に立つことにもなるという意識を多くの人が持てば、目にした情報への着眼も変わり得る。SNSが氾濫する社会で情報リテラシーを養うには、そうした基本的なものの見方を深めていく努力もまた欠かせない。






