AIと人間 問われる「いのちの尊厳」(6月12日付)
生成AIを使用する機会が急速に増えてきて、その恩恵に浴することも多い。こなさなければならない仕事がずいぶん楽になり、AIのおかげで何とか一息つけると考えている組織や集団も多いことだろう。悩みを打ち明けるのにAIだと傷つけられることなく、穏やかな言葉が返ってくるので安心だという人も珍しくないようだ。
ところが、実際にAIを用いていくと、しばしば「人間ではない」ことから生じる難問に出合うことにもなる。
AIによる自動運転が進んだ場合、人間の運転よりは安全性が高まることが期待されている。だが、それでも事故が起こった場合、その責任は誰が取るのか。戦争でAIを用いて殺害対象を見定め、砲弾を発射することも増えている。このように責任を取る存在がいなくなる、あるいは不明確になるということがある。
死者をAIで再生して現前させ、会話を共にすることができる。是枝裕和監督の映画「箱の中の羊」は、悲しみを癒やすためにAIを駆使して死者を再生させ、死んだ我が子としばし共に過ごすという設定だ。だが、AIによって再生された死者(ヒューマノイド)は生者の意思次第で抹殺できる存在でもある。生者の都合で利用する「生き物」として作られた存在なので、処分もできるのは当然ということだ。
映画や文学作品では、処分されるヒューマノイド、廃棄される再生人間というテーマがしばしば登場する。スティーブン・スピルバーグ監督の映画「A.I.」(2001年)は、凍結された病気の子どもが治癒可能になったために、代替の子どもとして作られたヒューマノイドが処分され、ガラクタの世界をさまよう話だ。カズオ・イシグロ氏の小説『クララとお日さま』(21年)では、処分可能な「AF」、つまり人造友だちが主人公になっている。
現代の生命科学が、人体を作ったり作り替えたりすることができるようになっていることも想起される。「再生医療」に多くの期待がかけられているが、それは人体の大切な部分の作り替えや代替物の作製を目指すものだ。将来は移植することを展望に入れて、臓器もどきのオルガノイドも盛んに作られている。
このように代替生命を作る科学技術も発展しているが、それは人のいのちを処分できるものへと近づけていくことにもなる。そうなると「人のいのちの尊厳」が脅かされていくのではないか。倫理的宗教的な、奥深い射程を持つ問いである。







