生成AIの故人再現は冒涜か 社会の倫理観も問われる
東京科学大教授 弓山達也氏
生成AIで故人を再現させることの是非は、2019年の紅白歌合戦で「よみがえった」AI美空ひばりを山下達郎が「冒涜だ」とコメントしたことで一気に身近になった。しかしどうも議論は収束していないようで、今年になってから筆者の身近でも勤務先関連の『RITA MAGAZINE2』(中島岳志編/テーマ「死者とテクノロジー」)で、またコルモス会議「AI時代における宗教」で、この問題が正面から論じられている。
AI美空ひばりに関する新聞投稿をめぐって一人称と二人称、三人称それぞれの死と関連させて整理した池谷駿一らの研究もあり、ふと理工系の学生なら関心があるだろうと思い、受講者120人の講義2回を使って、事例と研究の紹介と小レポート、議論と事後のふりかえりを行ってみた。
まず、これを冒涜だとする場合、多くの学生が故人の意思が反映されていない点を理由にあげている。本人の許可なくAIで復活させることは尊厳の侵害であり、死の受容を妨げると考えているようだ。また、AIが故人の人格を模倣することは「偽物」であり、記憶や思い出の価値を損なうという懸念も根強い。自分や家族がAIで復活することを望まないという強い感情的拒否も目立つ。
しかし一方で、条件付きでの許容を主張する意見もみられる。本人が生前に許可している場合や、家族など限られた範囲で慰めや心の支えとして利用する分には認めてもよいという慎重的容認だ。これは、技術の進歩を完全に否定せず、適切なルール作りを求める現実的な視点であろう。
さらに、AIによる復活を冒涜と捉えない肯定的な意見もある。講義では師茂樹氏の「AI故人は遺影の延長線上」という意見を紹介したこともあって、写真や伝記と同様に記憶や思い出を残す新たな手段として評価し、自己決定権や家族の希望を尊重すべきだとする見解が目立った。特に突然の死別による悲しみを和らげる心の支えとして、一時的にAIを活用する価値を認めよとの声もあった。
興味深いのは、意見が自分や家族を対象にした際と有名人など第三者を対象にした場合で大きく異なる点だ。自分事として考えると感情的で具体的な拒否感や慰めの必要性が訴えられるが、第三者視点では社会的・文化的意義や公共性、倫理制度の観点から冷静に議論される傾向がある。
印象的だったのは、ある学生が「冒涜ではないという意見だったが、議論していくうちに考えが変わった」と述べていたことだ。自分事と他人事を分けて考えた方がいいという質問もあがったが、あえて両者を交錯させたのは、科学技術の進展は他人事だけでは捉えられず、自分事として考える契機が必要だからだと回答した。
先の師氏は、AI故人と遺影との違いを情報量の多寡とし、饒舌なAIに対して遺影には当事者の悼む気持ちが入る余地(先の中島氏は「余白」という)があるという。AIで故人を復活させることは単なる技術的挑戦ではなく、個人の尊厳、死の受容、社会の倫理観を問う問題であり、「私がどう思うのか」という自分事の視点と決して無関係ではないのだ。