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僧侶が取り仕切る「儀礼」の力 変化の中で保持される宗教色

京都府立大教授 川瀬貴也氏

時事評論2025年2月5日 09時22分

私事だが、先日義母が亡くなり、妻の故郷で葬儀を行った。人が生まれる時、死ぬ時は選べないので、その現場に携わる人々は24時間体制で、まさに「一期一会」の活動をしてくださっている。今回、某葬儀会社に全面的にお世話になったが、数時間前までいわば「見ず知らず」であった我々遺族に対して、懇切丁寧に式を取り仕切ってくれた。葬儀会社の皆さんに感謝の念を抱きつつ、私は自分がこれまでの人生で、どのような葬儀に立ち会ったかを回想していた。

この20年ほどで私が参列したお通夜、告別式はほぼ全ていわゆる「斎場」で行われたものであるが、現在50代の筆者にも、30年ほど前の祖父母の葬儀はまだ自宅で行った、という記憶がある。ある研究によると、1980年代から90年代初頭まではまだ自宅での葬儀が多かったが、2000年代になると過半数が斎場での葬儀となるそうだ(玉川貴子『葬儀業界の戦後史』青弓社、2018)。これは自分の体感にも合致する。統計によると、寺院、教会などの宗教施設での葬儀も年々減っているようである。

今や「葬式不要」と宣言し、いわゆる「直葬」を行ったり、無宗教での告別式だけにしたりする方も少なくはなかろう。斎場は確かに特定宗教に限定されず、「自分(遺族)好み」の葬儀をある意味演出できる場であるが(葬儀や墓石による「個性発揮」も当然現代的な動きである)、大抵は僧侶を呼んでの読経を中心とした葬儀を行っていることだろう。つまり、宗教施設と切り離された場とは言え、斎場はいまだに濃厚に宗教色を保持していると言えよう。私の義母の葬儀も、妻の実家の宗旨の僧侶をお呼びして読経していただいたが、改めて感じたのは、信仰心の有無にかかわらず、宗教者が取り仕切る儀式、儀礼の「力」であった。あえて俗っぽく表現すれば、読経していただき、参列者が焼香することにより雰囲気が「締まる」のである。

話は私がかつて少しフィールドワークをした沖縄に飛ぶ。私は学生とともに、6月23日の「慰霊の日」に行われる戦没者慰霊の現場にお邪魔して、ある自治体の各集落で行われる慰霊祭をいくつか見学させてもらったのだが、そこには大抵仏僧の姿があった。我々は複数の慰霊祭をサーキットのように回ったのだが、行く先々で同じ僧侶の方に会ってお互い苦笑したほどである。そこで聞き取りしたことを要約すれば、沖縄には檀家制度がないが、やはり読経してもらうと「慰霊祭の雰囲気がよくなる」とのことで、戦後に開かれた寺院に慰霊祭での読経を依頼しているとのことであった。つまり依頼側は宗派や教えなどには無関心だが、仏教儀礼の醸し出す「力」を借りたい、ということであろう。実際、沖縄における葬儀では、檀家制度がないせいで、葬祭業者が宗派にこだわらず手空きの僧侶を呼ぶという習慣がすでに確立されており、葬儀と法要のみに関わるある意味究極の「葬式仏教」が実現しているという報告もある。

葬儀業は葬儀を総合的にプロデュースする地位にすでに就いていると思われるが、宗教的な儀礼はいつまでも「外注」されることであろう。

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