信用と信頼への努力 宗教の価値を高める余地(7月11日付)
「巧言令色、鮮なし仁」は論語の一節である。孔子の時代にも言葉だけは巧みでも、思いやりや慈しみに欠けた人は多かったに違いない。言葉を飾ることに長けた人がいるというだけでなく、そうした言葉に惑わされる人が数多いという状況は今も昔も変わらない。
相手に言葉の重みが感じられるか、言行が一致しているか、そうしたことを判断するには、それなりの経験と学びが必要になる。巧言令色がはびこっているのは、見分ける力が自然に培われるものではないことを物語っている。
信用と信頼は似たような意味だが、少しニュアンスが異なる。時間軸に関連させて「信用は過去、信頼は未来」と解釈する人もいる。これまでにやってきたことの積み重ねが信用を築き、それがこれからやろうとすることへの信頼をもたらすといった捉え方である。
なかなか奥行きのある解釈なのだが、そうした人間関係を築いていくプロセス自体に、難しさが増しているのが現代社会である。巧言令色の輩の多さは相変わらずであるにしても、なぜ信用・信頼を築くのが難しくなっているのか。幾つかの要因があろうが、急速な情報技術の発展に対し、個々人の情報リテラシーが追い付けないのも大きな理由と考えられる。
スマートフォンなどで老いも若きも簡単に世界中の情報に接することができるようになったので、あたかも簡単に「真実」を知ることができるようになったとする錯覚が生まれやすい。会ったこともない人物とのオンラインでのやりとりで相手を信用する。誰かが思い付きで流した根拠のない情報、意図的に作成したフェイク情報を多くの人が信じ込む。SNSは実に厄介な現象を社会にもたらした。
そのような情報の流れに影響を受ける人が増えているとすると、信用や信頼を構築していくための場が少なくなる。他方で巧言令色の効果はむしろ増している。
21世紀の日本社会では、人口が減少し、限界集落が増える傾向は避けようがない。それは必然的に宗教活動にも及ぶから、後継者に悩む宗教が増え、維持できなくなる神社寺院教会等が増える。社会全体の趨勢を考えるなら、新しい情報技術を活用してもこの流れを変える努力には限界がある。
だが、宗教活動の質を維持し、社会的価値を高める余地はまだまだある。その時に信用・信頼という要素は大きな比重を占める。特に注意すべきは、新しい情報ツールがもたらす負の側面に目を向けることだ。何が信用・信頼の構築の妨げになっているかを考える作業は、より複雑になっている。