「〇〇じまい」の風潮 地域コミュニティーと宗教(8月29日付)
関西を中心に「地蔵盆」が各地で行われたが、大阪のある古寺の住職が先般、街角で「諸般の事情で『地蔵じまい』します。長い間ありがとうございました」との町内会の張り紙を見かけた。「墓じまい」や「仏壇じまい」はもはや一般的だが、「地蔵」とはと驚嘆した住職は、地蔵の守りをする住民の高齢化と担い手不足であり、それは「地域力」の低下だと危機感を新たにしたという。
同様の例は各地で聞かれる。維持できない地蔵を寺に預けるケースもあるし、逆に多くの地蔵像を収蔵する寺院が盆の時だけ地域に貸し出しているケースもある。
伝統的に8月下旬の地蔵盆の風習が洛中にしっかり残る京都市ではかつて、住宅地の道路を通行止めにしてゴザを敷き、各家の子らの名前を入れた提灯をつり下げて、ゲームや菓子配りに子供たちが集う光景がよく見られた。
それが地域コミュニティーを維持する役割を果たしてはいたが、運営する人たちと「自治会」との区別はほとんどないことも多かった。同じ流れで神社の札購入の案内などが回されることもあり、それへの宗教的感性の違い、信教の自由の問題からか、かなり前から見られなくなりつつある。
もちろん地蔵盆の主役たちが激減する少子化、世話人の高齢化や自治会への加入者自体の減少もあり、そんな事情は多くの土地に共通するだろうが、どう対処すればいいのか。
いかに伝統であろうが地蔵盆が宗教行事であることは自明の理である。「固いことを言わずに」などというのが一方的な見方であるのは、クリスマスやラマダーン明けを想起すれば分かることだ。「宗教」であることをうやむやにせずに前提にし、その上で「信心はともかく、行事に楽しく参加してみては」というような人々のつながりをつくることが一つには大事だろう。宗教を押し付けず、かつ単純に忌避しない。たとえ信仰がなかったり異なったりしても、ほかの宗教的伝統に興味を持ち、敬意を払うのは重要だ。宗教の多様な意義や役割を考える意味で、そこには宗教者の大事な役目もある。
子供食堂など様々な地域活動をする上記の住職は「ローカルに根を張ってこその寺。足元は“◯◯じまい”で揺らぐ時代だが、新しい根っこを地元の深い所まで延ばす僧侶の努力が大事です」と語る。住職も言うように、それは地味で地道な作業だが、そうしなければ、いずれ「寺じまい」が現実のものとなるだろう。いや、各地で既にそうなっているのだから。