タイパで失うもの 宗教の自然な対面状況の価値(6月18日付)
2010年代からコスパ、さらに20年代からタイパの言葉がよく使われるようになった。コスパはコスト・パフォーマンス(費用対効果)を略したものである。なるべくコストを少なくし多くの益を得ようとするのは、とくに批判される考え方ではない。しかし日々の生活では、この考え方を当てはめられない場面が多々ある。「このことが分かっただけでも、これまで努力してきたかいがあった」という表現などは、コスパの発想とは程遠いところにある。
タイパはさらに問題をはらむ考え方である。タイム・パフォーマンス(時間対効果)の略だが、タイパが時間の節約を目指しているならとりわけ問題はないが、たんに時間をかけないで何かを得ようとするだけのことがけっこうある。動画視聴を通常の速度ではなく、1・5倍速、時には2倍速で見るのが普通になっている人がいる。若い世代に増えているという。
「ユーチューブ」には「ショート動画」と呼ばれる60秒以内の動画がある。「インスタグラム」や「ティックトック」にも1分前後のショート動画が流れる。こうしたごく短い動画が増えたのは、これを好む人が多いことを意味する。映画館で一つの映画を見れば、1時間半から2時間はかかる。スマートフォンで多くの動画を次々見れば、短時間に異なるストーリーをその場で楽しめる。まさにタイパがいいことになろう。
だが人間の記憶は極めて複雑な仕組みを持つ。コスパ・タイパを追求していると、失われるものが出てくる。宗教の教えが説かれ、修行や実践がなされるのはほとんどが対面状況である。そこでは目先のコスパ・タイパの追求からは得られないものが豊富にある。これは近年の脳科学や認知科学の研究を参照しても明らかである。
例えば宗教の集会の場では、宗教家の説法があり、全員で儀礼がなされたりする。そこでは話の内容や儀式の次第などはおおむね意識的に受け止められて記憶される。他方、その場で無意識的に記憶されるものがある。集会の雰囲気や語っている人たちの表情、儀礼の動きの中で生まれる皮膚感覚、さらにはその場の匂いや音、音楽が感じられることがある。こうしたものは自然と記憶され、全体的記憶が無意識に作られている。
コスパ・タイパ至上主義になると、こうした人間の無意識的な記憶の積み重ねの機会が乏しくなってしまう。功利性によらず、自然な時間の流れの中で行われる宗教の集会では無意識的に大切なものが記憶されていく。このことの意味は改めて見直されていい。