「追悼の日」の意義 将来の安心安全目指し(9月10日付)
9月1日の防災の日が102年前の関東大震災に由来することは知られているが、この夏は80年を迎えた8月6、9日の原爆忌、終戦記念日、40年前の日航ジャンボ機墜落事故など多くの人命が失われた過去の災禍に関する忌日が相次ぎ、いのちの重みを改めて考える契機となった。
そのような「区切りの年」ではなくても津久井やまゆり園事件、西日本豪雨、JR福知山線脱線事故など、そしてそもそも1月の能登半島地震から阪神・淡路大震災、3月の東日本大震災・福島原発事故、熊本地震等々と生命の危機が訪れた“記憶の日”は数多くある。
今後も増えることはあっても決して減りはしない。「覚えきれない」かもしれないが、かけがえのない人々を亡くした個々の当事者にとっては決して忘れることなどできないのだ。
それらの起きた日を「追悼の日」とすることの意義は、今後二度とそのような悲劇を招かないようにするための契機とすることにあり、そこでは「祈り」とともに何らかの行い、働きかけが重要だ。現にいろんな形でそれが繰り広げられている。
神戸市須磨区では、1997年に起き社会に衝撃を与えた当時14歳の「少年A」による連続児童殺傷事件をきっかけに、悲惨な犯行の現場となった丘陵に同区仏教会が建立した「仲良し地蔵」像の前で毎年夏の地蔵盆に合わせて法要が営まれている。
今年も僧侶らの読経に、地元自治会や各学校、行政、警察や消防関係者、そして子供連れも含めた住民多数が参列し、犠牲者の冥福を祈って焼香した。
仏教会長が挨拶で「こういう取り組みによって、昨今も続く痛ましい出来事が少しでも減れば」と訴えたように、自治会長や学校長らも口をそろえて、地域で互いに手を取り合い協力して安心安全な街づくりをすることの意義を強調した。この法要がその軸になっているのは間違いない。
以前に仏教会長として何年も導師を勤めてきた善本秀樹住職も参列した。事件を機に子らにいのちの大切さを考えてもらう行事を自坊の浄土真宗本願寺派順照寺でもずっと続けている。
世界では戦争が絶えることがなく、国内でも災害に加え悲惨な事件事故が相次ぐ。住職が「僧侶として亡くなった方々を弔い、今後の平安への願いを皆さんの心に抱いていただく」と語るように、様々な契機をとらえて災禍の犠牲者を悼むのと同時にいのちの重みを訴えかけていくこと。それが宗教者の大きな役目だろう。